ネイク代表:松澤大輔
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- 名前:松澤大輔(まつざわだいすけ)
- 役職:代表取締役
- 生年月日:1990年4月17日
- 出身地:岩手県
- 所在地:神奈川県
- 血液型:O型
- 最終学歴:専門学校卒
- 専門分野:マーケティング
株式会社ネイクの代表取締役。平成24年に柔道整復師の国家資格を取得。治療家として3年間の下積み。日本一の接骨院を作るために、早期から経営を学ぶ必要性を感じ、完全未経験でフルコミ営業の世界へ。幸運なことに全国約200名の中で5位の成績を収める。その後、マーケティング支援会社にコンサルタントとして入社。80社以上の支援を担当。年間延べ4,000件ペースでコンテンツ作成支援。30回以上のセミナー登壇。その後独立を決意し、令和7年12月に株式会社ネイクを創業。「日本一の治療院を作る」という信念のもと、マーケティング支援業に命を燃やしています。私の発信を通じて、誰かのハッピーが少しでも実現するなら、それ以上の喜びはありません。
経歴
- 平成21年4月:学校法人滋慶学園 仙台医健専門学校(平成24年に柔道整復師の国家資格を取得)
- 平成24年4月:エクシステンス株式会社(千葉県千葉市中央区の鶴沢接骨院にて柔道整復師として約3年間従事)
- 平成27年1月:個人事業主(業務委託にて教育教材の成果報酬型の営業として約2年間従事)
- 平成29年2月:株式会社ルーシー(マネージャー、コンサルタント、セミナー講師として約9年間従事)
- 令和7年12月:株式会社ネイク 創業(現在)
得意なこと
広告費ゼロで、Webからの集客を増やすことが得意です。とくに「技術力はあるのに集客が伸びない」と悩まれているケースです。ちょっとしたツボとコツをおさえれば、一気に集客を改善することは可能です。広告費をかけなくても、クライアントが持つ強みを活かすことで、多くの人々が自然とWebサイトに集まる構造を作ることはできます。そのためには良質なコンテンツの存在が不可欠です。自身でコンテンツを作ること、クライアントのコンテンツを作るお手伝い、いずれも得意分野です。
過去の支援実績
過去のキャリアにおける私の支援実績です。
- サイト立ち上げ10ヶ月で14.6億円の売上を創出した不動産会社
- 年間受注数が85件から1,225件に飛躍したベビー用品レンタル専門店
- 月間コンバージョン数が18件から495件に倍増した革製品のリペアスタジオ
- 月30件→173件の問い合わせ増加を実現した物販コンサル企業
- ECサイトからの売上を前年比263%に飛躍させた雑草対策専門店
- 不倫慰謝料専門サイトの問い合わせ数、受任数を10倍に伸ばした法律事務所
- 高単価案件の集客を通じて売上を前年比120%に伸長させた大阪の外壁塗装店
- 6ヶ月間で1,500万円の売上を獲得したブランディング専門のコンサルティング会社
- 支援からわずか5ヶ月で3,000万円の売上を創出したシステム開発会社
- わずか6ヶ月でWebサイトのアクセス数を12倍に増やした太陽光発電専門会社
- ファッション&アクセサリーの2領域で合計60万PV/月を達成したブランド買取専門店
- ページビューを7.9倍に改善しサイトのV字回復を実現した外資系セキュリティ会社
- たった15記事で月間40万PV超えを実現した大阪の歯科クリニック 他多数
好きな言葉
- やるやつはやる やらないやつはやらない(矢沢永吉)
- 世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る(坂本龍馬)
好きな書籍

- 成り上がり(矢沢永吉)
- 竜馬がゆく(司馬遼太郎)
- 坂の上の雲(司馬遼太郎)
- 愛するということ(エーリッヒ・フロム)
- 夜と霧(ヴィクトール・フランクル)
- 7つの習慣(フランクリン・コヴィー)
- ビジョナリー・カンパニー(ジム・コリンズ)
- 人を動かす(デール・カーネギー)
- 生き方(稲盛和夫)
- WHYから始めよ!(サイモン・シネック)
- 眠りながら成功する(ジョセフ・マーフィー)
- 渋谷で働く社長の告白(藤田晋)
- 運命を拓く(中村天風)
- 影響力の武器(ロバート・チャルディーニ )
- フロー体験(ミハイ・チクセントミハイ)
- EQこころの知能指数(ダニエル・ゴールマン)
- イノベーションオブライフ(クレイトン・クリステンセン)
- DIE WITH ZERO(ビル・パーキンス)
私の原点
現在の私を作り上げてきた原点を紹介します。
自衛官に囲まれる家庭に生まれ育つ
本州最東端の町、岩手県宮古市で誕生。
リアス式海岸の、最も飛び出ているところ。と言えば少しはイメージが湧くかもしれません。後ろに山、隣に川、前に海、周囲に田んぼ、という田舎です。

父が自衛官、親戚も自衛官。自衛官に囲まれる家庭で生まれ育ちました。当然ながら、自分も自衛官になるんだろうな。と思って高校3年生まで生きていました。
祖父と祖母が一力屋という小さな商店を営んでいました。商店兼自宅です。私が小学生になるまでは、家族みんなで一力屋に住んでいました。その後、一力屋のすぐ隣に自宅が建ちました。それからは自宅と一力屋を行ったり来たりする生活をしていました。

一力屋はもともと民宿だったので、それなりに建物が大きく、夏休みの時期になると親戚一同が一力屋に集まって寝泊まりしていました。自衛官たちと過ごす夏休みです。海水浴に、花火に、BBQに、平和な田舎暮らしをしていました。
野球で右肘を壊す
小学校4年生の時、先輩に誘われて野球を始めました。
最初はサッカーに興味があったのですが、平成の怪物、松坂大輔を見て、「名前が一文字違いだから、自分もプロになれるかも」という安易な考えで、野球の道に飛び込みました。ピッチャーを目指しました。
家の近くの堤防を相手に、毎日のようにピッチング練習に励みました。ボールで削られて、堤防は真っ白になっていました。球速も上がり、コントロールも改善され、気づけばピッチャーとして登板する機会に恵まれました。しかし、突然右肘が痛み出して、ついには全力で投げられなくなりました。
そこで、接骨院に通い始めました。これが初めての接骨院との出会いです。
「このままだと関節ネズミになる」と言われ、ピッチング練習は控えるようになりました。ピッチャーとして登板する機会もなくなり、気付けばセカンドを守っていました。そうして6年生の夏を終えました。
バスケにどっぷりハマる
田舎だったため、中学校の運動部は、野球、バスケ、卓球の3択でした。
そもそも卓球部は選択肢になく、丸刈りになるのが嫌で野球部を避け、消去法でバスケを選択しました。
祖父にバスケットゴールを買ってもらい、毎日のように庭で練習を重ねました。最高のダンカーと称されるNBA選手、ビンス・カーターが大好きになり、跳躍力を高めるトレーニングを重ねました。中学校2年生の時点でスタメンに起用され、気づけば最多得点を取れるようになっていました。先輩から推薦をいただき、キャプテンを任命されました。
高校に入ってからも、1年生の時点で最多得点を取っていました。
2年生、3年生に萎縮しながらも、最初の試合で27得点取れたのは、その後の自信につながりました。バスケが楽しくなり、引き続き跳躍力を高めるトレーニングを重ねました。先輩から推薦をいただき、またキャプテンを務めることになりました。その頃にはリングを掴めるくらいの跳躍力を手にしていました。

バスケで右膝を壊す
いよいよ、高校3年生になり、最後の大会である高総体が近づきました。そこに向けて練習試合の回数が増えていきます。
ある練習試合の最中、私は右膝の前十字靱帯を断裂しました。
右足で着地した瞬間に、相手の体重が乗りました。
グリ!っと膝がねじれた感覚がわかりました。激痛で目の前が真っ白になりました。起き上がれませんでした。その瞬間「もう高総体に出場できない」と悟りました。
案の定、膝はグラグラ、腫れも強く、どんどん水が溜まっていきました。整形外科に行き、前十字靱帯の断裂、半月板の損傷と診断されました。そこから松葉杖生活です。
でも、最後の大会に出場しました。
できるだけ右膝に体重を乗せないように試合に望みました。6年間の努力を十分に発揮することができないまま、試合には負けました。

治療家の道を志す
私のクラスは、別名「スポーツ科」と呼ばれていました。
学力的には一番下、でも運動ができるメンバーが多い。私はその一員でした。だから勉強のことは後回しで、運動だけ頑張っていればいいと思っていました。
そんな中で、進路の話が登場します。
就職とか、大学とか、全くわかりませんでした。話についていけませんでした。でも、自衛官になるんだろうな。とは思っていたので、公務員コースの授業を受け始めました。
高校生活の過程で、祖父が亡くなったり、祖母の腰が痛み出したり、自分のこれまでの経験を思い返したりするなかで、ふと医療の道を進む決断をしました。自衛官もいいと思っていたけれど、公務員=安定という感覚に反発があったのかもしれません。
理学療法士、作業療法士、診療放射線技師、臨床検査技師など、色々な職業を調べ、「理学療法士なら身体の痛みに困っている人を救える!」と思い、仙台の専門学校を受験しました。しかし、不合格でした。学力が全く足りませんでした。
その後、柔道整復師の存在を知りました。接骨院の先生を、柔道整復師と呼ぶなんて知りませんでした。大変失礼な話ですが、当時は「理学療法士よりも難易度が低い」と聞いていました。だから、これなら自分でもいけるかも?と思い、「仙台医健専門学校」を受験しました。なんと、合格しました。

日本一の治療家を志す
仙台で一人暮らしを始めました。
なんの影響かはわかりませんが、「やるなら日本一を目指そう」と思っていました。圧倒的な1位で卒業しようと決めていました。
同級生には申し訳なかったのですが、余計な馴れ合いはしないと決めていました。
多くの同級生は、図書館に集まって合同で勉強していましたが、私はすぐに帰宅しました。周りと圧倒的な1位で卒業するために、1人で勉強すると決めていたのです。たまにみんなで飲みに行くことがあっても、私は家に帰るなり勉強していました。「みんなが帰って寝てる間に自分は勉強をする。この差で人生は変わる。」と思っていました。試験では、100点を連発していました。廊下に貼り出された試験結果の順位では常に上位にいました。
そして、2年生の期末試験が終わるくらいのタイミングで、東日本大震災が発生しました。
地元が壊滅し、自宅は全壊し、祖母が亡くなったことを数日後に知りました。
1ヶ月経って地元に戻った時、迷子になりました。見る影が全くなかったからです。自宅が2kmも先に流されていました。一力屋はどこにも見当たりませんでした。

ここで「日本一の治療家になる」と決めました。
その後も必死に勉強し、成績トップで卒業しました。
国家試験にも合格し、柔道整復師の免許を取得しました。

治療家デビュー
担任からの紹介で、千葉市の鶴沢接骨院を紹介してもらいました。
足を運び、面接を受け、ボロボロのアパートを契約し、2012年4月に治療家デビューします。

なかなか上手くいきませんでした。
勉強することと、実践することは、全く異なることを知りました。
そして、仕事のハードさにやられました。
深夜12時を超えるのは普通でした。2時頃まで職場にいるのも普通でした。月末にはレセプト対応があるため、朝5時まで仕事をし、杉田家で朝ラーメンを食べ、家に帰ってシャワーを浴び、仕事を開始し、また朝まで仕事をするような日々でした。
初めてのゴールデンウィークの最終日、迷走神経反射によって20回嘔吐し、意識を失い、病院に運ばれました。
私の人生で、唯一メンタルがやられた瞬間です。
そのエリアでは最も繁盛していました。
朝には行列が並び、夜は受付終了時点で3時間待ちが発生している状態でした。並んででも、待ってでも施術を受けたいと患者さんが殺到していたのです。本当にきつかったですが、地域No.1の接骨院でした。

治療家デビューをして、最高に嬉しかった瞬間は、初めて肘内障の整復をした時です。
腕が全く挙がらなくて泣いていた子どもが、帰るときには大きく腕を振ってバイバイしてくれたからです。
そんなこんなで、気付けば患者さんから指名をいただけるようになり、外傷を見る機会も増え、着実に治療家として成長していきました。本当にハードな日々でしたが、人の役に立っている実感があったので、最高に楽しかった日々でした。
日本一の接骨院を志す
技術力が磨かれていく一方で、経営についての関心が高まっていきました。「日本一の接骨院を作る」という志が生まれた頃です。開業するつもりでした。

そのために、今の自分は何を選択すべきか?と考え始めました。
たどり着いた結論は、セールスとマーケティングの力を身につけることでした。
その結論に至った理由は、数少ない休みを使って、毎週のように都内に経営者に会いに行っていたからです。セミナーに申し込んでみたり、SNSで声をかけてみたり、紹介をもらったり。色々な経営者に会う中で、セールスとマーケティングの重要性を学びました。
また、当時私はコミュニケーション能力に一番の問題意識を抱えていました。
会話が苦手で、できる限り人と接したくないと思っていました。これではまともな経営者になれないと危機感を抱いていました。
「セールスの経験を積めばコミュニケーション能力も改善する」と考え、完全成果報酬型のセールスの道に進むことを決意しました。
セールスに挑戦
扱っている商材はさまざまでした。
長く扱っていたのは、個人事業主向けのセールスプログラムでした。セールス未経験者が、セールスのプログラムを販売するという、なかなか不思議な状況でした。
主にSNSを使ってアポを取りました。プロフィールやメッセージ次第で、相手の反応が変わることを学びました。通常はカフェを利用していましたが、たまに良いホテルのラウンジを利用していました。場所を変えるだけで、契約率が上がりました。タグホイヤーの時計を買いました。おそらくですが、これも契約率に影響しました。話を聞きすぎないようにしたり、商品よりも自分を売ることに努めてみたり、色々な工夫を取り入れていく過程で契約数は増えていきました。
あるタイミングで、全国200名の営業成績を競う機会がありました。幸運なことに、全国約200名の中で5位の成績を収めました。

それと同時に、もうやめようと思いました。
数字を追うがあまり、売るべきでない人に売ってしまっているような感覚に襲われたからです。もしセールスしなくても経営が成立するなら、その道を選択したいと思うようになりました。
本当に大切なことは何か、どうすれば人は幸せになれるのかを考えました。
たどり着いた結論は、誰かの幸せを徹底的に追求することでした。
誰かにとって良いことをし続けていれば、後から結果はついてくると信じていました。セールスも、マーケティングも、世の中もそうあるべきだと思っていました。
そこで出会ったのが、株式会社ルーシー(バズ部)でした。

マーケティングに挑戦
さっそくマーケティングコンサルタントの職に応募しました。
ユーザー主義という理念に強く惹かれたからです。自身の価値観と完全に一致していると思いました。
ただ、初めての会社員(サラリーマン)経験です。稟議の出し方や、WordやExcelの使い方など、普通の社会人の所作がわかりませんでした。コンセンサスとか、プライオリティとか、アサインとか、初めて聞く横文字にも困りました。エビデンスくらいはさすがにわかっていました。
スタート地点がみんなと違う以上は、誰よりも時間をかけるしかないと考えました。
だから朝は絶対に誰よりも早く出社しました。朝4時に起きて6時前にはオフィスにいました。土日も出社しました。全てのフィードバックを素直に受け入れました。やるべきと思ったことは全てやったつもりです。
そうこうしているうちに、コンサルタントとしてデビューすることができました。

最初は苦労しましたが、だんだんポイントをつかんできました。
そのポイントとは、テクニックは本当に不要だということ。
価値あるものを生み出せば、本当に後から結果がついてくるということです。
Webのこと、マーケティングのこと、ビジネスのこと、全くわかりませんでした。
でもユーザー視点はありました。情熱もありました。ユーザーにとっての価値を追求する、という1点に集中した結果、軒並み結果が出るようになったのです。クライアントの集客や売上が何倍にも増える経験をしました。
世の中に溢れている、小難しいマーケティングのテクニックは覚える必要がありませんでした。例えば、私はいまだにSEOのことはそんなに詳しくないです。でも事実として国内トップクラスの結果を多く生み出してきました。
気付けば80社以上の支援を担当し、マネージャーのポジションに就き、30回以上のセミナーに登壇しました。
株式会社ネイクを創業
そして2024年。
30代前半の最後の年に、人生を本気で考え始めました。
これまでの経験、これからのビジョン、自分の強みや弱み、生き方、哲学、向き不向きなど、総合的に考えた結果、独立を決めました。
これが、株式会社ネイクを創業した経緯です。

株式会社ネイクの究極の目的は、地域住民のハッピーを実現することです。
そのためには、地域住民に強く信頼される治療院が必要です。そして、信頼される治療院には、高い技術力に加え、高い人間力、そしてマーケティングの力が必要です。マーケティングとは、人や社会に価値を届けることだからです。
正しい哲学と、正しいプロセスを踏むことが、治療院経営をより良くしていくための唯一の方法だと考えています。それによって集客や売上が倍増する経験をしてきたからです。それを全国の治療院に伝えていくために、株式会社ネイクは存在しています。
